このあたり一帯は室町時代には「高楡」と書かれていましたが、江戸時代には「高擶」と記されるようになりました。このことから、吉田東伍(よしだ・とうご)博士は次のような説を唱えています。
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このあたり一帯は立谷川(たちやがわ)扇状地の先端部に位置するため湿地が広がっており、ヤチタモと呼ばれる樹木が生い茂っていたため「高楡」とつけられたと考えられています。
- (関連ページ)
- ▼天童市南西部の地図
- http://www.ikechang.com/map_d1.htm
- ▼天童の地名の新説(天童のニュース:平成10年9月・第3週)
- http://www.ikechang.com/1998/9809j3.htm#980918