5月23日に正式に発表されたパイオニアレッドウィングスの廃部について、地元紙・山形新聞が2日間に分けて特集記事を掲載しました。
本県の女子バレーボールチーム・パイオニアレッドウィングスの廃部が決まった。1979(昭和54)年に産声を上げてから35年。国内最高峰のプレミアリーグで2度の優勝を果たした一方、近年は母体企業の業績不振で苦しい運営を強いられ、成績は低迷していた。一時代を築いた名門チームの足跡をたどり、廃部が本県スポーツ界に与える影響を探る。(報道部・五十嵐聡)
レッドウィングスの前身は、東北パイオニア(天童市)の福利厚生の一環で創設されたバレーボール部。92年に本県で開催された「べにばな国体」に向けて強化がスタート。同国体3位入賞でさらに戦力充実が図られ、96年に実業団リーグ(現チャレンジリーグ)に昇格した。
99年に加入し、エースアタッカーとして活躍した阿部(旧姓斎藤)真由美さん(43)=天童市=が当時を振り返る。前チームでは「バレーをする環境が整い、自分のためにプレーするだけだった」と言うが、東北パイオニアの状況は違っていた。
「トレーニング施設や選手寮など何もそろっていなかった。バレー部の救急箱にはさびたはさみが入っていて、それで滅菌ガーゼを切っていたほど」。一方で「選手を応援してくれる地域の温かさを強く感じた。誰かのために戦うことの大切さを学んだ」と、今もチームに感謝の念を抱いている。
阿部さんやセッター内田役子選手ら経験豊富なメンバーを加えたチームは2000年、念願のVリーグ(現プレミアリーグ)昇格を果たす。東北パイオニアは社長・会長を歴任した石島聰一さん(故人)の下、施設やスタッフを充実され、支援態勢を整えた。
Vリーグでの日本一を目指し、00年にアリー・セリンジャー監督を招聘(しょうへい)。その後は日本代表の吉原知子、佐々木みき、多治見麻子の各選手も加えて陣容を強化した。03〜04年にリーグ初制覇を飾り、04〜05年は準V、05〜06年は2度目の優勝と黄金期を築きあげた。
チームの躍進に比例し、地元の熱も高まった。00年には県や県バレーボール協会などが中心となりファンクラブが設立され、パイオニアレッドウィングスの愛称も決定。天童市などでのホーム戦はチームカラーの赤い法被を着た地元ファンで埋め尽くされ、立ち見が出るほど。同協会の前会長でファンクラブ会長を務める志田翼さん(72)=山形市=は「テレビで見ていた有名な選手を直接応援できるとあって、ものすごい盛り上がりだった」。それだけに「チームがなくなるのは言葉が出ないくらい残念」と話す。
決してバレーの「強豪県」ではなかった山形で、身近でトップレベルのプレーに触れられる貴重な機会をもたらしたレッドウィングス。選手たちは園児への絵本の読み聞かせや小学生とのふれあい給食などを通じ、地域とも積極的に関わった。単なる企業スポーツの枠を超え、県民に愛されたチームだった。
◆天童市に本拠地を置く女子バレーボールチーム・パイオニアレッドウィングスの廃部が発表された。運営会社は業績不振を理由に挙げ、「チームの成績は関係ない」とした。選手らをかばったとも受け取れるが、逆に残酷な言葉に聞こえた。
◆かつての栄光から一転、近年のチーム成績は低迷していた。その現実は選手が誰よりも重く受け止めているだろう。ただ、「もし今季優勝していたら、廃部の判断は変わったのか」との思いも残る。成績が廃部の要因なら、その悔しさが選手にとって今後の糧にもなろう。それを、業績不振の経営判断とされれば、選手の努力とは何なのか。いくら汗を流そうとも何も変わらなかったのか。
◆元監督で世界の名将アリー・セリンジャーは「山形を日本バレーの中心にしたい」とと語っていた。そして一時だが、その夢は共有できた。運営会社にいたことはあるが、
そんあことよりも、選手たちに感謝を伝えたい。OGも集めて市民やファンと交流する、そんな場をぜひつくってほしい。
[山形新聞]パイオニア廃部の衝撃 県民と触れ合い 愛され
(上)一時代築いた名門、35年の足跡
「誰かのために」
地域との関わり
取材雑記
(健)
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