将棋駒の歴史
(最終更新:2002年2月10日)
江戸時代
- 1831年(天保2年)
- 草書体の書き駒の原型となる書体、そして将棋駒の製造が天童に伝わる
- 織田信美(おだ・のぶみ(のぶかつ))が居館を高畠(現在の山形県高畠町)から天童へ移し入部する
明治時代
- 1864年(明治元年)
- 吉田大八(よしだ・だいはち)が天童藩の用人役に就く
- 藩士の生活がとても貧しかったため、吉田大八(よしだ・だいはち)が対応策として藩士の将棋駒製造を奨励する
- 1869年(明治2年)
- 織田信敏(おだ・のぶとし)が天童藩の知事に任命される
- 将棋駒卸売業(駒屋)が形成される
- 書き駒が発展して、山川千満蔵(やまかわ・ちまぞう)らの書師が輩出される
- 1904年(明治37年)
- 日露戦争
- 1909年(明治42年)
- 天童温泉が開かれる
- 1910年(明治43年)
- 結城定助(ゆうき・さだすけ)や小林盛知(こばやし・????)らが「足踏み式荒切り#1機械」を考案。将棋駒製造における機械化がはじまる。
#1荒切り(あらぎり):将棋駒のはばで切り出した木地を将棋駒の形にしていく作業
大正時代
- 1912年(大正元年)
- 三河金次郎(みかわ・きんじろう)が印鑑彫りの技術を活かして彫り駒を作る
- 1914年(大正3年)
- 第一次世界大戦が勃発
- 1915年(大正4年)
- 竹内七三郎(たけうち・しちさぶろう)が東京の奧野一香(おくの・いっきょう)のもとで彫り駒を習い、東京彫りを導入する
- 1919年(大正8年)
- 中島為三郎(なかじま・ためさぶろう)が電力による玉切り#2を始める。ついで結城定助(ゆうき・さだすけ)らの協力で「小割#3仕上げ機械」を完成し、駒木地の工場一貫生産を始める。
昭和時代
- 1928年(昭和3年)
- 斎藤喜代治(さいとう・きよじ)が「足踏み式小割専門機械」を考案
- 1931年(昭和6年)
- 満州事変が勃発
- 1932年(昭和7年)
- 大山広吉(おおやま・ひろきち)が「手押し式仕上げ#4機械」を考案。このような手動式の木地加工機械は操作が簡単だったため、今後広く普及するようになる。
- 工場設置の機械化に蒸気動力や発動機が利用される。
#4仕上げ(しあげ):小割りした木地の表裏をナタで削ってきれいにする作業
- 1935年(昭和10年)
- このころから、工場生産において機械の電動化がすすむ
- 1937年(昭和12年)
- 「天童町将棋駒工業組合」が結成される
- (昭和14年から昭和15年ころ)
- 大阪からの依頼で押し駒の生産を始める
- (昭和15年ころ)
- 彫り駒の目止めとして、赤く変色する欠点のあった柿渋(カキシブ)に代わり、膠(ニカワ)が使われるようになる
- 1941年(昭和16年)
- 第二次世界大戦が勃発
- 兵隊に対する慰問駒が大量生産される
- 1945年(昭和20年)
- 第二次世界大戦が終戦
- 1946年(昭和21年)
- 「山形県将棋駒工業協同組合」が結成される
- 戦後まもなく、書き駒に草書体は書かれなくなり、楷書体が中心になる
- 1954年(昭和29年)
- 「山形県将棋駒協同組合」が結成される
- 1町6村が合併し新天童町が発足
- 1955年(昭和30年ころ)
- 彫り駒の需要に対応するためシャムツゲ材#5が導入される
- 彫り駒の目止めとして、膠(ニカワ)に代わってボンドが使用される
- 1958年(昭和33年)
- 市政施行されて天童市が発足
- (昭和30年代)
- 押し駒、書き駒中心の生産から、彫り駒の生産が増える
- 銘駒の導入がさかんになる
- 1965年(昭和40年代)
- 彫り埋め駒と盛り上げ駒の商品化がおこなわれる
- 字形に多くの書体が使われる
- 彫り駒において機械彫りが始まる
- 1974年(昭和49年)
- これ以降、押し駒そして書き駒の衰退・減少が年を追うごとに顕著になってくる
- 1985年(昭和60年)
- 生業(なりわい)としてのナタ切りの木地生産が姿を消す
平成時代
- 1992年(平成4年)
- 天童市将棋資料館が開設される
- 1996年(平成8年)
- 「天童将棋駒」が伝統的工芸品として通商産業省(現在の経済産業省)から指定される
- 1997年(平成9年)
- 伝統工芸士として11名が認定される
「天童と将棋駒」(発行:天童市役所観光物産課)から引用
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